私の『航海記』
~サン・マリーナが私の居場所になるまで~

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30代半ばを過ぎてから初めて見つけた私の居場所——それがサン・マリーナでした。

クラブハウスであるサン・マリーナを選んだ大きな理由は、友愛電話や友愛訪問などの相互支援の活動に興味を持ったからです。今日は友愛活動を中心にサン・マリーナが私の『港』になるまでを書き進めたいと思います。

私は幼い頃から周りに混ざれない感じがしていました。常に緊張感が強く、安心できる居場所がなかったことが背景にあります。サン・マリーナのメンバー登録の決め手になったのは、見学案内をしてくれたメンバー3人がそれぞれの目的をもって通所していたことです。お互いを尊重して活動していたところに魅力を感じました。数回の体験利用を経て、昨年(2020年)夏にメンバー登録をしました。私はまずスタッフに慣れていくことから始めました。しばらくするとスタッフだけでなく知っているメンバーも増えて、少しずつ会話ができるようになってきました。サン・マリーナが私をあたたかく受け入れてくれる場所だとゆっくり少しずつ体感していきました。

ところがその年末年始、薬の副作用により「死にたい」という気持ちが強くなりました。相談できる公的機関はどこも開いていないので、誰にも頼れない状況でした。その時、「ぱっ」と思い出したのが、サン・マリーナでした。お正月真っただ中で何度もためらいましたが、勇気を出して電話をかけました。施設長のNさんが折り返してくれた時、心細さと有難さから思わず泣き出してしまいました。「こういう時のための電話なんです」と力強い言葉をかけられたことを私は決して忘れません。そして『ひとりぼっちにならない、させない』というスローガンを意識するようになりました。体調不良でなかなか通所できなかったので、その頃から週に1回の友愛電話をお願いしました。

その後、ひとり暮らしをしていた部屋の台所の水道が壊れました。水道修理の見通しも立たず、ユニットバスの水を飲む生活に心身ともに疲れ果てていました。「この死を望む気持ちは症状なのか? 副作用なのか? 本当に死んでしまいたいのか?」、それがわからなくなってしまいました。私は不安から何度もサン・マリーナに電話をかけていました。時間を忘れて30分以上も話を続けていたこともあります。そんなパニック状態の日々が続いて、久しぶりにサン・マリーナへ通所した日のことです。以前と比べて私の体重は一気に10キロほど落ちていました。ふとホワイトボードを見ると、以前のふっくらした私の写真のマグネットが貼り付けてあり、その横にマンガにあるような吹き出しがついていました。その『週1でTEL』という書き込みを見た時、感動と感謝で涙がどっとあふれました。サン・マリーナが私にとって大切な居場所だと再確認しました。「元気になってここに必ず帰ってこよう、今度は定期的に通えるようになりたい」と決意したのです。その後なんとか引っ越しが決まり、荷造りや各種手続きの際もたくさんの友愛訪問を受けました。毎月送付されている友愛手紙や、メンバーたちからのあたたかなメッセージも心強かったです。

2021年晩秋、つい最近の出来事です。周りに誰もいなかったので苦手で避けていたサン・マリーナでの電話対応に自ら挑戦しました。私が電話に出ると懐かしい声が聞こえました。その声の主はかつて私に友愛電話をかけてくれていたメンバーでした。嬉しさも倍増!し、自信もつきました。

私の祖父母の家の近くには漁港がありました。そこにはいくつもの船が停まっていて、そのどれもがちがう大きさや形でした。共通点は、船たちが一様に穏やかな水面の港の中でほっと一息ついているような空気が流れていたことでした。それと同じような穏やかで活気のある空気がサン・マリーナにも流れています。私たちは今日も荒れた海へ出航します。波にのまれることもあるし、潮に逆らえずに流されることもあります。でも、サン・マリーナが私の『港』になった今、少しくらいへこたれてもまた頑張れそうな気がしています。

(波奈[はな])